ふたり旅(公文健太郎 ✕ 山口誠)

京都 修学院離宮

圓通寺同様に、後水尾上皇が造営した離宮です。総面積545,000m2を超える雄大な離宮です。下離宮・中離宮・上離宮と3つのエリアに分かれていて、その間に約80,000m2に及ぶ水田があり、その水田を横切る松並木が3つの離宮をつないでいます。下離宮と上離宮の高低差は約40m近くあり、上離宮からすぐ眼下に眺める浴龍池とその向こう側にある遠方の山々を借景にしたドラマチックな風景が魅力的です。

公文
修学院離宮は見応えありましたよ、とても広かったですしね。ここへは何回か行っているんですが、なかなか難しかったです。

山口
修学院離宮って山の上にあるんですよ。そこから見下ろす風景が綺麗なんです。修学院の中に人口の池があって、その池の向こうに山々が見えるという、山の上から遠くの山々を見るという場所です。山々が借景になっているのが本来的な修学院の庭の見方なんですが、今回はそれを選んではいません。水田があることは知っていたんですけど、行く前はあまり気にしていなかったんですよね。どちらかというと池と山々の借景を公文さんに撮ってほしくて行ったんですけど、でもむしろそれよりは庭の中に水田という機能的なものがそれなりの面積をとっているという状態にフォーカスしようと思いました。岡山の後楽園にも水田があるんですが、普通に考えたら庭の中に水田があるというのは不思議なわけなんですね。

どうして水田が離宮のなかにあるのですか。

山口
天皇が京都の街から離宮まで篭に乗ってやってきて、一日中庭を楽しむような場所である庭園というイメージの中に、水田といういわゆる身分としては低い農民のモチーフが混在している。もしかしたら田植えを見て楽しんだのかもしれないですけど、やはり少し違和感がありますよね。手が入った松が立ち並んでいるその向こう側に水田があるというのは、在り方として本当は一緒にあってはならない感じがするんですけど、まさに並んでいる状態だというのを現地で目の当たりにしました。

公文
そもそも田んぼというものでも、手を入れるか入れないかで大きな差があるんですよ。美しさが違うじゃないですか。庭のひとつとして管理された田んぼがあるのは、手入れされた松と同義なような気もします。田んぼというキーワードでいえば、桂離宮の外周に田んぼが隣接し、そこには境目がないという文脈がありました。衣食住の食の部分がここにあって、そのすぐ隣に天皇という手の触れられない存在がいる。桂離宮ではその境は撮れなかったんですけどね。

山口
天皇が水田を耕している民を見ているという構図はわかるんです。桂離宮では茶室の格子から隣の水田を見ていたんでしょうね。でも離宮という場に農民の田畑が隣り合っていたというのもやはり不思議な構図です。中国だったら紫禁城の周りに田畑はありえないじゃないですか、皇帝のまわりに近づけもしない。それがさらに修学院の場合だと、機能である水田と鑑賞するための庭園が同じ敷地内に並存していることが面白いです。

公文
それから正門からの導線もよかったです。入り口の正面に立つと、山の上に続く白い砂利が敷き詰められた綺麗な道があって、両脇に植えられた松を見ながら登っていくのは気持ちよかったですよ、天国に昇っていく感じでしたね。

山口
それは僕にはあまりわからなかったですけど…。田舎を再現しているんだと思ったんですよね。両サイドに松を立ち並べることで格調を出そうとされている中に、街中にはない水田という風景を作りあげています。

公文
ストーリーがあるなと思いました。御成門があって、質感の違う扉を潜って、休憩して、田舎の風景を楽しみながら苦労して上に行って、というストーリー。物語は劇的ではく、非常にまったりしている。それを優雅に楽しめた平和というか贅沢があったんだというのがよくわかりました。その中でディテールが気になるようになっていて、地面の一二三石は敷石の数でテクスチャが作られています。飛び石の質感のちがいの中にリズムがあるのは見ていて気持ちがよかったですね。

山口
写真でみると色の違いなどに気づくことができるけど、現場だとこの飛び石はささやかすぎて、見逃してしまう。色や質感が違う石を並べているじゃないですか、ちょっとずつ違うものを並べることで絶妙な雰囲気をつくる、つまり「微差」があるものを並べることで現れてくる魅力みたいなものを作っているんです。意識しないと見落としてしまうような微差を、公文さんが写真で捉えてくれています。

カメラで見たから面白い風景、ということになりますよね。

山口
これもそうです。これは雨樋ですね。普通だったら縦樋に接続させるように軒の出隅のあたりで止まって下にいくのに対して、ここでは延長していて、ある種乱暴に水を下に落としているわけです。建物から離すためのものだと思うんですけど、ずいぶん高いところにあるから、オーバーハングしていて下から見上げることになります。微差をコントロールしている扱いのものと比べると、これは大胆な操作で、唐突な感じがしたんですよ。この風景の中でまったく「関係がない」という様相にあるのは、もしかしたら借景の山のあり方と同じ感覚なのかもしれないと思ったんですよ。関係がないこともひとつ日本の文化の特徴なのかもしれないと。写真だと強調されて見えますが、青空に雨樋の線画びしっと入っていることで、唐突に新しい風景になっていると感じました。

公文
それから、松がコントロールされている向こう側に水田があることがわかる絵作りというのが、残念ながら旅の中でうまくいかなかったんですよね。

山口
一番最初に冬に行ったとき、刈り取られた田に霜が降りていたので、ここに水が張られる初夏に稲がいい感じに育っている様相を想像して再訪したんですが、稲があまり育っていなかったんですよね。予想を裏切られて、想定していた構図ではうまくいきませんでした。この場所の特性ということでいえば、なかなか同じ場所に立ち続けられなかったことも難しかった要因のひとつですね。ガイドや他の人もいる環境での撮影になるので。

公文
この旅で、もし4×5(シノゴ)の大型カメラを選択していたとしたら、山口さんの指定の場所で、事前に許可をとって、かっちり撮影していたと思います。だけど、自分が反応してスナップした写真にあったような、二人で現地で再発見するような結果にはならなかったでしょうね。