ふたり旅(公文健太郎 ✕ 山口誠)

京都 圓通寺

『圓通寺(えんつうじ)』は、もともとは後水尾上皇の別荘で、後水尾上皇自身が作庭に携わったと伝えられています。同じく後水尾上皇の造営した修学院離宮完成後、1678年に寺院となりました。比叡山を借景にした庭園は、日本庭園の研究論文のなかでも常に代表的な存在として取り上げられています。圓通寺庭園として、国の名勝に指定されています。

聞き手・構成|圓谷真唯

山口 借景庭園と言えば圓通寺なんですよ。江戸時代初期、最初はお寺ではなく、後水尾天皇が比叡山を見るのに一番美しい場所を探してここに庭をつくったんですね。おそらく庭を手がけた天皇は多くないし、かなりベストな場所を選んだんじゃないかと想像します。でも、写真を撮る上ではかなり難しい場所でした。

というのも、そもそも借景庭園には「視点場」というのがあって、そこにいて見る、というのが自ずと決まっているんですよ。圓通寺は歩いて散策するような回遊式ではなく視点場が固定されているため、そこでみんなが写真を撮るし、借景を見る。ほかの場所から撮ろうと思っても、視点場以外のスポットがないので難しかったですね。

公文 「ここに座ってこう見るものだ」というのが定まっているということは、その条件に合わせて見ることがよりいいですよね。でも、借景を撮りに行っているものの、その借景がすごく遠くて。フレーミングするなかで木々などを画面から切っているのですが、肉眼でも意識しないと借景に目がいかないんですよ。かといって、寄っても庭の構造が見えなくなる。そういう意味では、視点場というポイントになるものがあったらいいなというのがあって。手探りで撮影しているうちに、山口さんが手水鉢の水面と床の面が揃っていると話してくれて、それはなんとなく不思議だなと思いはじめて、そのおもしろさを中心に据えればここならではの借景を一気に伝えられるかなと。

山口 ともあれ借景といえば圓通寺なので、風景としてすごくよくできていると思います。視点場から肉眼で見たときも木でフレーミングされた向こう側に比叡山が見えるという構図は、ただ単に山が見えているよりも想像力を喚起しますよね。見る人の意識によって山の見え方が変わるような気がします。そういう意味で、借景の見方がわからなかったり、借景庭園だと知らずにこの場所を訪れたりしたら、比叡山を見るための庭だと思えるかどうか難しいくらい、穏やかなものなんです。「たまたま見えている」ように仕上げ、精度をあげてコントロールしているというのが質の高い借景だと思いますね。

平安時代に身分の違い表す方法は「色」と「香り」でした。宝石などの装飾品で地位を誇示する西洋文化とは異なり、色と香りという、物質ではない感覚で品位や品格を示していた。おそらく借景もそうで、例えば和歌を詠む人にとって、自分の生活領域である庭越しに山肌を見て季節の訪れを知るようにとてもささやかなもので、主張もなく、見る人がただ感じられればいいことなんです。

公文 写真で言えば、つくり手が知らない人が見たときにストーリー感じられるようなものをそこに込められるのかということに近いですよね。それってとても難しいことですよ。そうした庭の真価を写真で撮ろうとするのは、なおのこと難しいですよね。

山口 日本文化って写真に写すのが難しいんだなと痛感しますね。

公文 でも、借景ってそういうものなんだな、とここに行ってわかりましたね。もう少し主張をするものだと思っていたんですが、ささやかなで。だからといって、主張しすぎていても、存在がなくても成り立たないということもわかってきました。借景が見えすぎたとしたら、和歌は詠まないかもしれないですよね。想像する余地がなくなってしまうというか。届かないものだから言葉にしたり、借りてくるような感覚で見ようとしたりするのかなと思います。

2021年10月27日