カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社の上田元治さんは、年間300本以上の展示を観ており、香川県の島にある『本島別邸』で開催された「隣り合うマチエール」の展示にも足を運んでくださいました。本島別邸などの借景を写した写真を、「実際の空間のなかで観る」という経験はどのようなものだったのかについてお話を伺います。
「アートがある生活」を提案する
上田さんのSNSを拝見すると、年間相当な数の展示に足を運んでらっしゃいますが、お仕事ではどのようなことをされているのでしょうか?
僕は1997年にカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)株式会社に入社したのですが、2017年にアートを事業化するというミッションができ、それ以降アートを軸とした店舗やコンテンツ開発を行っています。CCCは1985年に創立して、それまではレンタルを中心にしたフランチャイズ事業を行っていたので、店舗へのアクセスが大事だったんですね。なぜなら、ビデオやCDって借りたら返さなきゃいけないから。
でも、これからはそういう時代じゃないと、創業者の増田宗昭が「居心地のいい空間をつくる」という理念を掲げて、『代官山 蔦屋書店』が生まれました。いわゆる総合書店のようなあり方ではなく、専門領域のプロフェッショナルであるコンシェルジュがいる、ライフスタイル提案を軸にした書店という考え方を体現しました。
なるほど。そうやって、CCCのリニューアルを行ったんですね。
そんなライフスタイル提案のひとつとして『GINZA SIX』 に、アートと日本文化を軸にした『銀座 蔦屋書店』をつくることになりました。そのタイミングで『美術手帖』を発行する美術出版社や、ミュージアムショップを手がける 『NADiff(ナディッフ)』 などの、アートの知見があるチームを迎えることになったのです。そうやってさまざまな専門性のある人たちが集まったのがCCC アートラボ。「アートがある生活」を提案する企画集団です。
僕はそのなかで事業戦略を練ったり、事業管理をしたりしています。書店、出版、メディアの組み合わせによって新しい何かが生まれるのではないか、という考え方がベースにあります。
茶席での「見立て」の体験
「隣り合うマチエール」の展示は、どのようにご覧になったのでしょうか?
僕が本島に行った日は、雨の降るまだ肌寒い3月だったこともあり、茶室研究者であり、茶室建築家でもある遠山典男さんによる茶席が印象的でしたね。黒いお茶碗に抹茶を立ててくださって、それにこう顔近づけるじゃないですか。そのときにガラスの引き戸の向こうにある庭を眺めながらお茶をいただいたのですが、お茶を見て「あ、一緒だ!」って思ったんです。
鏡のように感じたということでしょうか?
「木造建築の黒に近い、濃い茶色の窓枠のなかに庭の緑が広がっているという、いままさに目の前にあるものが手のひらにもあって、顔を近づけたら、それがそのまま重なる感覚があった。これが茶道における見立てか、と腑に落ちる感じがしました。この「物を本来あるべき姿ではなく、別の物として見る経験」がおもしろかったと遠山さんに申し上げたら、通常の茶席は外界から遮断して、いわゆる茶室の狭い空間のなかでお茶に向き合って集中するのだけれど、今日は特別に襖(ふすま)を開けたということを教えてくれました。
この茶席での体験が、その後の展示鑑賞の基調となりました。「見立て」という概念を通じて、目の前にあるものとその向こうにあるものが重なり合う瞬間の美しさを感じましたね。
多層的な構造の写真展
展示そのものが、本島別邸で撮った写真を実際の風景のなかで見るという、多層的な構造でした。写真展だけれど、写っているものは目の前にある庭そのもので、苔庭では瀬戸内海に島がぷかぷか浮いている様子が表されていたりして、庭もまたその周りにある風景の見立てでもある、というメタ構造になっていましたよね。
そうしたメタ構造の展示空間にいるというのは、どんな感じだったのでしょうか? 見るべきところがいくつも同時にあるというのは、自分の感覚や空間が広がっていく感じなのか、逆に吸い込まれるような感じなのか。
どっちもありましたね。本島別邸の庭は余白が多いというか、生い茂ってない。最近、フランスの庭師、ジル・クレマンの『動いている庭』(みすず書房、2015年)を読んでいるからそう思ったのかもしれませんが、これから植物が自ら成長していくことを前提に配置されているように感じたんですね。いわゆる西洋の庭園のようにガチガチにコントロールするあり方ではなく、この先の姿を想像して応答していくというような。
日本庭園というのは、そのほとんどは育ちきった、ある種完成された状態で、その庭が経てきた時間を楽しむことが多いと思うのですが、この庭はそうじゃない。むしろ将来こんなふうになるかもしれないなと想像しながら眺めるようなところがある。なので、それは時間の順行と逆行が同時に起きている状態で、身体感覚が拡張してるんだか何だかわからなくなってくる(笑)。
現在と未来が同時に存在するというか、時間を直線的ではなく円環的に捉えたテッド・チャンの『あなたの人生の物語』(早川書房、2003年)のことを思い出しましたね。未来からバックキャスティングする感覚があった。そんなふうにそこかしこで深読みができて、めちゃくちゃおもしろかったです。
なるほど。本島別邸にある家屋の年代はさまざまなので、過去に対する意識が生まれるのは想像がつくのですが、そんなふうに未来に対する感覚もあったんですね。
写真は公文健太郎さんの作品ですが、空間は山口誠さんの作品なので、同じ場所に対して互いに異なる視点を与えてくれますよね。もちろんそれはふたり旅を通して培った共通する感覚もあると思いますが。今回の写真展のポイントは、被写体に本島別邸だけでなく、『MONOSPINAL』も入っているということが挙げられると思います。目の前に広がる実際の庭と写真が重なるだけでなく、山口さんの設計した浅草橋の近代的なビルが混ざっていることで、それらに対する視点が連続していることがわかる。
MONOSPINALの写真に、1階の外観の写真があります。傾いている電柱が立っていて、それが古い木のように見えました。そんなふうに、それを「見立て」と呼んでいいのかわかりませんが、勝手に電柱が古木に見えてきて、電線がツタに見えてくる。それと同じようなことは写真のなかだけではなくて、自分の家の近所を歩いているときにもあって。そういう視点をもらった瞬間から、日常のなかでまちの風景が違って見えるなと思いました。
だから借景というのは、つくり手の意図であると同時に、見る側の読み取り方でもあると思うんですよね。そうするとじゃあ、瀬戸内海の自然の豊さを味わいましょうというような話になりがちですが、そうじゃなくて、都市にある電柱と電線に何かを感じることはできるし、自然はよくて人工物はよくないという二項対立ではないと思うんですよ。
結局、庭ってめちゃくちゃ人工的なものじゃないですか。そこに自然があるのに、わざわざそれを模した人工物をつくって愛でている。それに、ガラスや金属、コンクリートだってもとを辿れば自然界で採取されたもの。ということを考えれば、僕たちはグラデーションのなかにいて、それを読み取る視点さえあれば、もっとさまざまなものを複雑に、豊かに受け取ることができるかもしれない。それは山口さんたちが小石川後楽園で、山ではなく東京ドームを借景として捉えたことにつながるなと。それは、風景の見方と自分自身の心地よさを広げてくれるのではないかと思います。
この世界に「手触り」を生む
毎日限られた時間のなかで展示に足を運ぶというのは、その手前で行く・行かないという選択があると思いますが、上田さんのなかに何か基準や方針のようなものがあるのでしょうか?
僕が展示に行く基準には、コレクター的な視点はありません。たぶんそのときそのときに自分のなかで気になっている問題意識を重ねながら選んでいると思います。あまり深く考えたことはありませんが、自分と社会の接点にアートや音楽や建築、映画などの文化的なものを置いているからです。
僕は中学生の頃からよく音楽聞いていたのですが、音楽を聞く快感だけでなく、なぜアーティストがそれをつくったのかを知るのが好きだったんですよね。それこそ洋楽を聞いていると、音楽誌でその国の文化や社会情勢が語られているじゃないですか。そうやって、自分が興味を惹かれた音楽などをきっかけに、その向こうにある社会に接続できる。そして、やっぱり本というよりも本屋が好きだったんですよ。本や雑誌の表紙を眺めているだけでも、なんとなくこうリンクしてくるものがあるじゃないですか。キーワードがつながったり、いまのムードを知ることができたり。
そう考えると、この「借景―隣り合うマチエール」というプロジェクトの背景には、どのようなものを感じましたか?
先ほど『動いている庭』の話を出しましたが、クレマンの思想を現代社会に応用した宇野常寛の『庭の話』(講談社、2024年)によれば、そこで書かれていることは庭の話だけではなくて、社会やコミュニティの話なんですよ。秩序化された庭ではなく、動き続ける生きた庭には耳を傾けてそれに応答する必要があり、これは社会とのかかわり方に通じます。いまやSNSが当たり前ですが、インターネット技術が登場した当初は世界中の人とコミュニケーションができるというユートピアが語られていました。しかしそれとは反対に、現在はヘイトや陰謀論などものすごく殺伐とした状況が起きていますよね。それはなぜなのか。宇野さんの議論では、この状況をどうやったら変えられるのかという方法の一つに「庭」が出てくるんです。大切なのは、自分の手で何かをつくることだと。
それはすべての人がアーティストになるような大げさな話ではなくて、庭をいじることも含めて、何かをつくるという創造的実践がこの世界とのかかわり方であるというようなことが書かれています。こうしたかかわり方がこの世界に「手触り」を生むというのが、「借景―隣り合うマチエール」との共通点ではないでしょうか。だから、風景の話であると同時に、その背景に何を読み取るかという、視覚以外の情報も含んでいるのだと思います。それが手触りの正体なのではないかなと。
この場所だからこそ成し得た経験
このプロジェクトにどのような可能性を感じますか?
今回の展示は、この場所だからこそ成し得た経験だったと思います。そもそも本島別邸という場所も含めて一つの作品なのだと思いました。本島別邸を写した作品が本島別邸に置かれ、庭には瀬戸内海の風景も取り込んでいる。そのレイヤー構造、グラデーション自体が作品性であり、「隣り合うマチエール」はそのことを自己言及的に示した作品だと思います。
木と石などの素材の違い、建築と植物、人工物と自然物、それらに明確な境界はなく、マチエールとして隣り合い、干渉し、シームレスにつながることで、空間全体が一つの作品として立ち現れている。あらゆるものが主役と脇役、内と外といった固定的な枠組みを脱して、ゆるやかに並列に並んでいる。山口さんたちは、その隣り合い方そのものに美しさを感じていらっしゃるわけですよね。
本島別邸はこの構造であり続ける以上、展示される作品は入れ替え可能です。あの場所ならではの経験が更新されることによって時間と人の記憶が積み重なっていくでしょう。でも、それはやはり行かなければはじまらない。観光地として集客するような性格のものではないけれど、わかる人にだけわかればよいというものではなく、できればローカルな人々にも届くものであってほしい。
本島別邸は、季節に呼応しながら変化し続ける「静かな場」です。目指すのは、この場所に、この考え方に共振しうる人たちと、ゆるやかにつながっていくことなのだろうと思います。それは、社会にどう還元されるのかがすぐには見えない、種蒔きのようなプロジェクトですが、だからこそ持続的な価値を生み出していくのではないでしょうか。
2025年3月26日