「見立て」の世界をアップデートする
建築家の山口誠と写真家の公文健太郎によるプロジェクト「借景 ― 隣り合うマチエール」の作品を目にし、改めて、日本庭園というのは贅沢極まりない表現物だと思った。植物や石など様々な自然物を素材として、その異なる形状と質感の組み合わせによって空間を造形し、高度に抽象化した世界観を表している。この壮大で手の込んだ立体的なコラージュ、あるいはアッサンブラージュについて、庭園史研究の第一人者であり作庭家の重森三玲は次のように解説している。
「日本庭園における抽象表現は、石を必ずしも石として用いず、石を山とか水とかその他の表現の素材とし、刈込に於いては植物を植物として用いるのではなく、種々な形を通しての物としての表現としている如く、何れもそれらの素材が、それ自体の本質を離れて他の表現内容を持つのである」(重森三玲「日本庭園に於ける抽象性」『刻々是好刻』所載、 北越出版、1974年)
このような抽象化を「見立て」と呼ぶようだ。興味深いのは、その見立てが内部に配された素材だけに留まっていない点にある。庭は外部と接続する空間である為に、その背後や横に位置する山や建築物をも素材として、眺めに組み入れる「借景」が重視される。借景によって庭は、造形的により深いパースペクティブを獲得し、その景色を完成させる。
日本庭園を「贅沢」だと言ったのは、こうして精巧に作りこまれた理想郷が、熟練の庭師の手で管理されなければたちまち荒廃してしまうからでもある。とはいえ、作庭家は経年変化それ自体を否定してはいない。人の意思と自然の持続的な生成とが融合し、当初の意図を超えて庭園が成長していくことを望む。
その点から言えば、山口と公文が日本各地に訪ねた名庭園は、もう十分に成熟しきっている。その成熟に対して彼らのアプローチは斬新と言える。景色を俯瞰するように撮ったものは少なく、素材同士の視覚的な響きに感応した刹那に、その表層を切り取った断片的なイメージが多い。公文は庭の内外を歩きながら、出会い頭の印象に反応するように小型のフィルムカメラでシャッターを切っているのだ。これは典型的なスナップショットの手法であり、生の眼で見た素朴な驚きを、衒いもなく表出するための選択である。
このようなアプローチからは「見立て」の可能性が、今や作庭家たちの意図を超えてしまっているという山口の認識が伺える。「借景」を主題に持ってきたのも、そこに顕著に表れているからだ。
時間の変化は過酷であり、手入れの行き届いた庭園内に対して、その外部に想定されたパースペクティブはすでに失われている。そのコントラストは時に強すぎる。高層ビルをバックにした「浜離宮恩賜庭園」や、青々とした生垣とアスファルト道路が描く曲線に注目した「桂離宮」などはその典型だろう。
このような状況が生き続ける芸術作品としての庭を殺していると指摘する声は強く、じっさいそこを訪れた人々に戸惑いを与えることも少なくない。だが、山口と公文がその変化を肯定的に受けとめているのは、この二点を見てもすぐに理解される。
私個人として、最も共鳴した作品は「小石川後楽園」で撮られた、樹林の隙間から見える、東京ドームの白いテントの風情である。その穏やかな切り取り方は、この人工的な素材を新しい借景としてすでに自然に受けとめている、私たちの眼差しそのものだと思えた。また、その一方で「皇大神宮別宮 瀧原宮」の黒と白の敷石で示された結界を注視した一点も面白い。古神道から続く日本の自然信仰のかたちに率直に感応していて快いのである。
山口と公文の対談を読むと、山口は公文に、できるだけ先入観を排し、徹底して庭の表層を見るように促しているのが分かる。まだ名付けられていないものを率直に指し示すように撮られた写真こそが、人の認識を根本から揺さぶり、新しい思考の端緒となり得る。
そのようなやり方で建築家と写真家は新しい美の発見、あるいは認識の更新に向かっている。伝統的な「借景」や「見立て」が志向してきた観念的世界とは、また別のベクトルによって日本庭園の読み直し、その美のアップデートを目指す。その過程のなかで写真がどのように変化していくのか、楽しみでならない。
取材・文=圓谷真唯